「新しい環境に慣れていく」ということ
4月に入って子どもの保育園がスタートしました。今は「慣らし保育」といって保育園に慣れるために短時間預けて様子見しています。
その流れの中で新しい環境にチャレンジするって大事なんだなーとしみじみ思うのです。
うちの場合、首がすわるタイミングで都内に戻ってきたので、その頃から仕事のためにファミリーサポートという地域の家庭に子どもを預かってもらう制度やキッズラインというシッターサービスを使って子どもを預ける生活が続いてました。
ファミリーサポートの預け先は大家族で、お爺ちゃん、お婆ちゃんに小学生の甥っ子、姪っ子と賑やかです。
うちの子はみんなに可愛がってもらい、とたんに懐きました。
シッターさんも良い縁に恵まれて息子はとても懐き、来てもらうと手をパタパタさせて喜んでます。
誰にでも愛想よく、懐っこく、扱いやすい。
それが今までの感覚で、だから保育園も楽勝だと思っていたのですが、、
実際に預けてみると、やはり今までと違うようです。
保育園は集団生活で、他の子どもたちが沢山いる中の1人です。
今までみたいにマンツーマンで面倒を見てもらえるわけでない。
そのため保育園が始まってから一気に息子が甘えん坊になりました。
保育園で満たされない甘えたい気持ち、自分だけを見てほしい気持ち、母子の間にある絶対の安心感を強く求めてきてる感覚です。
「新しい環境」は母としても、不安がありましたし、今まで後追いもせず、私がいなくても平然としていた息子が途端に甘えるようになって「おお」と思いましたが、なるほど人間はこうやって成長するんだなと感慨深いです。
「母子の深い結びつき」は他者との関係があるからこそ成り立つのかも、と思います。
そして、集団の中の1人を経験するからこそ、個の自分を自覚したり、主張が生まれるのかも。
それらは環境の変化に応じて得られるものなんですよね。
人を作り上げるのは持って生まれた性質、個性と環境、そして経験。
親としては、なるべく良い環境を与えていきたいと思うけれど、それより大事なのは、どんな環境の変化にも適応して、そこで得られるものを吸収して育つことなのかな?と思ったりします。
人生は与えられたカードでどう戦うか。
親は条件の良い強いカードを子どもに持たせるより、手持ちのカードで戦うことを教えていく必要があるんじゃないかなと。
今は新しい環境に本人が頑張って慣れる訓練中なので「頑張ったね!偉いね」と褒めながら小さな一歩を見守ろうと思います。
子育てを通じて、発見したこと、思うことを引き続き、このブログに綴っていきたいなと思います😊
母になって1年経って思うこと「自由を勝ち取っていきたい」
母になって、あっという間に1年が経ちました。
月日が経つ早さの体感レベルがもう新幹線です。
でも、とんでもなく濃い1年でした。
子どもに対する可愛さ、愛おしさが、産んでみたら想像よりずっと大きかった。
というか、私の想像できる次元を超えていた、という方が合っているかもしれません。
出産も育児も本能だと思っていて、本能は感情を超えるんですよね。
きっと今の私にあるこの想像以上の気持ちも、頭で理解できる世界ではないんだと思っています。
その中で母親たちの持つ葛藤が当事者になって分かるようになりました。
育児って確かに時間も身体も拘束されるものですが、一番大変なのが0歳の生まれたばかりで、ここで母親は産んだ身体の回復(産褥期)も含め一時休戦を余儀なくされます。
無痛分娩とか、リモートでの仕事とか、物理的にいえば、もちろん仕事を継続できますが、心情あるいは本能的に「赤ちゃんを育てるモード」に切り替わります。
でも自分がどんなモードであれ、時間は誰しも平等に流れていきます。
特に今の時代は1年でも止まれば「浦島太郎」になりそうなほど、時代の流れが速い。
育児と同時進行でSNSで多少は追うけれど、一番の情報って雑談でのたわいないくっちゃべりから得られるから、そういう意味で私は「産後の自由に出歩けず人に会えない環境」に焦る一方でした。
この「取り残される」感は結構な孤独でした。
ただ、私はせっかちなのと、良くも悪くも「自分で自由を勝ち取る」という攻めの考え方を持っているので、最低限の時期を超えてからはシッターサービスのキッズラインとファミサポをフル活用して自分の時間を「買って」凌いでいます。
「働いて得たお金でシッターサービスを利用する」という「仕事を継続するために今、目の前の時間を買う」選択をとりました。
子どもを預けることに抵抗ももちろんあったけれど、結果的にシッターさんもファミサポさんも凄く良い縁に恵まれています。
育児で物理的に大変なのは乳幼児の頃。
ならば、この時期に私が自分の仕事環境を出産前と同等あるいはそれ以上に良くしていくためには、外部のサポートは必須です。
この1年少しほど、厄年を絵に描いたようなトラブルに合って、無情さに打ちひしがれ「周りに頼らないと無理!」という極限の中にいました。
でも結果的にそのトラブルがなかった方がむしろ大変だったという、「プラマイゼロ、むしろプラス」の大逆転になっています。
忙しいし、大変だけれど、育児と仕事に集中できる環境に恵まれて、ある程度の時間の制限はあれど、産む前に覚悟していたよりずいぶんと自由です。
世間の考え方も変わってきている今は、子どもを産んでも数年の育児集中期間をなんとかすれば、産後も変わらず自分の道を生きていけるのではないかと私は思っています。
友人が言ってた言葉を借りれば「出産や育児は女性のキャリア」だから、休みではないんですよね。そこに付け足すなら、むしろ人生の修行です。人間としてより深く、厚くなるための。
(そうでも思わないと仕事と育児と両立するママたちはやってられないわ!とも思う。)
修行終えたらレベルアップしますから、母親の持ってる可能性って凄まじいと思います。
母親のキャリア形成については色んな企業や団体が専門的にやっているから、素人かつ母親歴1年の新人があれこれ口出しできる世界ではないけれど、私としては「育児集中期間」に母親が子どもの預け先に頭を抱えずにスキルアップできる環境を作れたらいいなと思っています。
出生率を上げるには、母親が幸せで豊かで生き生きとしていることも大事だと思うのです。
母親が育児でボロボロになっていたら、そりゃ子ども産みたい女性も減って当然だと思うから。
ギラギラやキラキラしなくてもいいけど、イキイキとね。
あと自発的なママたちともっと協力して、ママや子どもに優しい社会を自分らで作っていけたらな素敵だなーと。
行政に頼っても遅いし、何かがズレてて惜しい。
弱者みたいに手を差し伸べられるのも何か違う。自分たちの自由は自分たちで勝ち取っていくくらい攻めのスタンスで。
これもいつもの思い付きですけどね。笑
でも子どもを産んで、また自分の興味関心が変わり、やりたい事が拡がりました!
出産も育児も決して不自由ではないです。
母親の犠牲のもとで成り立つ価値観は昭和のもの。
平成からさらに年号の変わる今。
これからは子どもがいても、やりようによっていくらでも自分の道が生きられる時代です。
むしろ、出産や育児は母親の未来を大きく拡げてくれる素晴らしいものだと、声を大にして言いたいです。
続けてきたから今がある
過去ブログを振り返る②
これはもう3年前。
この頃は今ほど認知度がなく、お客様がきても月に10人満たない状態でした。
どうすればサービスとして、もっと広がっていくのか模索しながら、通帳を眺めては不安が募る日々。
サロンとして場所を借りて運営するにも不安があり、キャリーバックに備品を詰めてレンタルサロンでサービス提供していました。
毎度、運営場所が変わるので、お客様へのご案内も都度異なり、メンバーに現場を伝えるのも大変で、「こんなやり方じゃサービスとしての流れが出来上がらない」と悩んでいました。
その結果、政策金融公庫で150万の融資を受ける決断をして、サロンに使う部屋を借りて運用するようになったのですが、結果的にお客様から信頼を得られるようになり、備品も充実して、来客が一気に増えました。
2017年12月現在は毎月80名前後のお客様が来店してくださってます(T ^ T)
この時期、苦しいながらに耐えて続けて本当によかったです( ;∀;)
そして、今も昔もサービスとして目指すこと、実現していることは一貫して変わりません。
この頃の私に「大丈夫だよ。諦めずに続けた結果、ちゃんと目指していたサービスになっていったよ」と伝えてあげたいです。
↓↓↓
大事にすべきは ”関わり”と”喜び”
2014-07-15 21:12:33
先日シンデレラプランニングを受けてくれた子から
「彼氏ができました!シンデレラプランニング様々です。ありがとうございます!!」
と連絡が入ってすごくすごく嬉しかった。
「成婚しました」「憧れのお店の販売員になれました」「自分に自信がつきました」
こういう言葉を見るたびにシンデレラプランニングの必要性をとても実感する。
その実感こそ私がこの仕事を続ける"エネルギー"
この瞬間、どんな贅沢をするより心が豊かになるから、どんなに追い込まれても投げ出すことはしないでずっと続けてきた。
私だって普通の人間だから、忍耐強さや諦めの悪さは自負していても大変なことが立て続けに起これば心が擦れたり滅入ることもある。
特に仕事がなかなか安定しない今は油断すると心がつぶれそうになる。
こういうのは単純な忙しさやプレッシャーがかかっているのとまた全然違うストレス。
独立した人間は、自分の力で生きていく難しさや仕事を自分で得る大変さと戦わなくてはならない。
自分のやりたい仕事を形にするって言葉にすればキラキラして素敵だけど、それを実現するには途方もない努力や忍耐が必要だったりする。
キラキラして見えるのは、流してきた涙や汗で、実際は泥臭い世界だと思う。
固定の仕事をやって生活が安定している人と違う立ち位置だから、その分の不安を心身共にため込んでいたりして。
ただ、逆にものすごい額の負債を抱えてでも自分のビジネスで奮闘する人も沢山いるわけで
私の悩む額なんてたかが知れすぎてて情けなく思うこともある。
結局みんな他人の抱えているストレスやプレッシャー、葛藤は目に見えない。
自分だけが大変なわけではない。
会社勤めでも、フリーランスでも、背負う内容が変わるだけで、葛藤や不安が常にある。
お金に余裕があるように無理して偽る必要はないけれど、ストレスを抱えたとしても、それを出さない配慮とか努力。
それができないと人としての浅さが出ちゃうんだろうな。
この弱音なブログも自分の弱さかもしれない。
それにしても...
何も挑戦せず生きることだってできるのに
なんで、私はこうも挑みたくなるのか。
大人しく止まっていられないものかと、自問自答することがある。
でも、やっぱり時間は有限で
健康な体も自由に動き回る時間も、いつまでも確約されたものじゃないから
過ぎ去る時間を悔いないことが自分の優先順位の大きな所を占めているみたい。
私は自分のラクや安定より
求める人に対して
自信を持つキッカケ
その人の魅力に気づいてもらえるキッカケ
自分を好きになるキッカケ
そういう人生のターニングポイントなるキッカケを
シンデレラプランニングを通して提供していきたい。
で、結局それは喜ばれることが好きという
これまた私の性質の問題でもある。
どんな贅沢三昧より、チヤホヤされるより、自分の生み出したもので幸せになってくれる人がいることが私には価値がある。
人が喜んでくれて、私も嬉しいって最高だと思うんです。
何が幸せかって、シンデレラプランニングの場合はお客さんが喜んでくれるのは勿論だけど、関わったコーディネーターやヘアメイクさんカメラマンさんもお客様に喜んでもらうことでやり甲斐を感じて喜んでくれる。
上から目線で「綺麗にしてあげたい」というよりも、「綺麗になる楽しさを後押ししたい」
そういう目的を持った仲間で、その目標を実現させるって幸せなこと。
内面を変えるより外見を変えるほうが人が関われる。
外見の自信が内面の自信にもつながっていく。
そういう環境を、提供していきたいんだよなぁ。
なんか、最近色々あって、根本的なところを見失いかけてたなーと実感。
何が一番大切なのか、時に振り返る作業も大切。
そんなこの頃っす(ノw`*)
自己責任にすれば強くなれる。
ちょいちょい昔のアメブロに上げてた記事をリライトしていきます。
これは懐かしの2014年2月4日の記事。
「考え方が全体的に男」だと言われる私です(´・ω・`)
確かにいわゆる女子トークは"気持ちは分かるけど共感できない" という、どうにも微妙な立場です。
最近、よく聞くフレーズでどうにも引っかかるのがコレ。
「私は別に浮気されていい。最終的に帰ってきてくれればいいし、彼にとってナンバー1なら」
( °д°)?
聞くたびに、なんだろう
その変な土俵は。。。と疑問を抱く。
"彼にとってのいい女選手権" という土俵に上がって何になるんだろう?
ナンバー1って銀座のクラブじゃあるまいし!
"男の浮気は仕方ないし、でも私は彼に尽くしてきたし、彼にとって特別な存在だから、他の女なんかに負けないわ"
みたいな気持ちがあるように感じるけど、「彼のために我慢する」って辛くないですか?
恋愛に限らずどんなトラブルも自分がどう捉えて何を望むかだと思う。
相手が帰ってくるから、とか、自分がいい女だから、とか、そんなの分からないじゃない。
犬や猫じゃなく人間なんだから、つないで留める事はできないし、「いい女」の定義も曖昧だし。
刺激をくれる、色っぽい、料理が上手い、一緒にいると心地いい
"相手にとって「いい」要素"はあらゆる女の子が色んな角度で持っている。
何より相手が一番望むのが
"自分にとって都合がいい"かもしれない。
それは『遊び相手として』かもしれないし
文句を言わず従う『嫁候補として』かもしれない。
そこに優劣なんて存在しないから、余裕をもつ根拠がない。
彼が浮気相手と結婚したら?
信じた相手は帰ってこず、土俵にあがっていたはずのいい女選手権はまさかの完敗。
プライドはズタボロになる。
下手すりゃ憎んだり恨んだりの、修羅場になりかねない。
見せかけの余裕は芯がない。
本心でない言葉は、メッキが剥がれて落ちてしまう。
傷つく覚悟をもたない限り、その発言をする自分自身に対してしんどくなる。
そして追い詰められたとき、暴走して取り返しのつかない行動を起こす人もいる。
だから無理にいい女ぶらなくていいんじゃないかな。
そんな強ぶる必要ない。
余裕を持ちたいなら、すべてを自分の責任にすればいい。
疑うことなく信じるのは純粋だし、素敵だなと思うけれど、いい歳過ぎたら被害者意識より自分で決めた事に対して腹をくくった方がいい。
何かをされる側、振り回される側になるから愚痴不満が生まれるだけ。
裏切られた、と感じる事象の多くは相手を誤解しただけ。
女性関係がだらしない男なのに、それを隠した表面だけを信じて誠実な人だと誤解したり、
絶対に浮気する人じゃないと誤解していたけれど、実は心が弱い人だったり
浅い関係の中で信じるならそこに誤解や自分の都合いい解釈が、含まれている事が前提だし
それが現実と違って傷つくなんて至極当然のこと。
それを前提にして腹くくるからこそ余裕が生まれるんだと思う。
最後は結局、自分が相手を好きかどうかでしかなく、相手がどうかはあまり関係ない。
浮気する人だったなら、「そういう人だったのね」と認めるだけで、あとはどうするのか自分の判断。
騙された、傷つけられた、酷い!!と憤る気持ちは仕方ないけれど、それは自分が期待して、本来の彼のキャパシティにないものを求めた結果。
そうやって自己責任に持っていくと、強ぶらなくても強くなれる。
と、私は思います。
特に女性は、自分が好きな男性の酷い仕打ちを、その向こう側にいる女性にぶつけがちだけど、自分の見る目がなかった事を受け入れるのが1番だと思う。
ブスを知るからブスを語る
先日、親友たちと語らっていたとき、「あー」と思った話があったので忘れぬうちに、私の中のメモみたいな感じで書き綴ります。
近況やら今後の展望やら色んな話で盛り上がっているときに、親友の鳥山真翔くんが、ぽろっと言ったんです。
「愛ちゃんはブスを知ってるからブスが語れるのよね」と。
私はこの言葉にすごく共感しました。
もともとの私の背景はこのインタビュー記事を見てもらいたいのですが
an-life.jp
ざっくりいうと、起業の経緯は外見のコンプレックスでした。
小学校の頃は身長が平均より大きかったり、顔立ちが大人びていたこともあって、よくからかわれていました。
中学はそのコンプレックスを引きずったのと、アニメやゲームの世界にどっぷりつかり、黒い服をいつも着てました。
高校はそんな自分が嫌で、何か一つでいいから一生懸命頑張る自分に出会いたくて、剣道のスポーツ推薦で私立のスポーツ強豪校に入りました。
結果的に生活が180度変わって体育会系の環境に揉まれまくり、根暗だった性格が矯正されました。
高校時代の剣道部は「一生懸命頑張る自分と出会う」なんてキラキラした言葉が打ち消されるほど過酷。
骨折しても吐いても稽古続けさせられるエグイ環境で、熱なんて出そうものなら健康管理が甘いと叱れ、先輩の逆鱗に触れると何時間も正座させられる。
朝8時には登校して道場の雑巾がけ。夜は22時まで帰れないのに、学校から家までの通学時間1時間弱。
明日隕石が落ちて地球が滅亡すればいい。そうしたら部活に行かなくて済むのにと本気で思っていました。
そういう環境に身を置いたゆえに私の高校時代は「女子高生」という言葉とかけ離れていました。
ルーズソックス?なにそれ?甘いの?くらい別の世界。
でも思春期。人並みに好きな男の子だっていたけれど、当時は剣道のしすぎて筋肉質な体に、耳上5cmより伸ばしてはいけないと言われる超短髪の
まるで男の子みたいな外見で、女の子らしい言動なんて恥ずかしくてできませんでした。
それゆえに男友達のノリでしか話せない。好きな男の子がいても、「お前ぜったい性別間違えて生まれたよな」とか言われて「うるせーばーか」みたいな会話しかできない。
今思えば、ブスでいなくちゃ怖い時代でした。
「女の子らしくしようとして笑われたくない。」
「可愛い恰好なんてしたらコスプレにしかならない。」
頑張って、可愛くなろうとすることが恥ずかしい、だから男らしく振舞って、からかわれる形でも、それで自分の居場所が出来るならいいやと思っていました。
それが、20歳を過ぎてファッション、メイク、ヘアスタイルを一気に変えたことから大きく変わったわけですが、その経験があるから私はブスを語れる気がします。
ブスっていうのは外見の作りが問題じゃないんです。
目が小さいとか一重とか顔が大きいとかスタイルが悪いとか、そんなの全然関係ない。
そういう作りをブスと言う人がいるなら、それはそうやって言う人の方が心のブスです。
ブスって僻み、妬み、諦め、妥協、総じて自己肯定感の低さ。そういった負の感情が生み出す醜さを指すのです。
20歳を迎えるまでの、外見のコンプレックスが強かった時代の私は、世の可愛い子に対してどこか卑屈でした。
生まれ持った作りの良さ、スタイルの良さで得している人たちだと思って、狡いとか羨ましいとか思っていました。
「どうせ、〇〇ちゃんみたいになれないし」と悲観的な捉え方をしていました。
でも今になれば、努力も何もしない自分を棚に上げて羨んでばっかりだったと思います。
昔、ある本に「自分の見た目や環境は自分自身の選んだ結果」というフレーズがあって、すごく心に刺さったのですが、本当にその通りで。
高校時代の私は、自分が望んで男らしく振舞い、その結果、男のように扱われていたんですよね。
女性としての努力を放棄して、「だって私、そういうのじゃないから」って言い訳して。
歩くときがに股だったり、人前でおかまいなく大きなくしゃみをしたり(笑)昔は「マジで?」「すげー」とか言葉遣いも男みたいでした。
でも、それって自分がしたくて、それが自然だったというより、そういうキャラクターを選ぶ自分に逃げていたんだと思います。
自分の抱える問題を、一言「だって私、ブスだから」って片付けていたんだなと。
生まれたときからの天然美人に比べると、私は紆余曲折だし、美容の努力も、一般的な美容家と比べると体育会系なやり方だけど
そんな私だから思うこと、語れることがあるんだなと思います。
ちなみに、、
10代はたしかに先天性美人という何の努力をせずとも綺麗で可愛い子達が存在するのですが、20代を過ぎると段々と努力型の後天性美人が目立ち始めます。
そして30代になると内面がだんだんと外見に影響してくるように感じます。
顔や体の作りで「ブス」はないといったけれど、ひょっとすると30代以降は心や意識のあり方が顔などの「見た目」に出てくるのかもしれません。
その結果の良しあしが「美人」や「ブス」という言葉になるのかも。
そう思うとここからが本当の勝負どころなのではないか。
美しさは健全で前向きな心にこそ宿るものだと思うのです。
紆余曲折の色んな経験から、自分なりの「知ってるからこそ語れること」「気づけること」を大切にしたいと思うこのごろです。
出産しても美容のモチベは変わらなかった話
出産を終えて半年が経ちました。
よくメディアで「ママでも綺麗」「ママなのに綺麗」みたいなワードを目にしていたこともあって、子供を産んだら美容は無頓着にならざる得なくなり、おばちゃん街道を突き進むしかないもの。というイメージがふわっとありました。
育児より自分の見た目を大事にする母親にはなりたくなかったし、自分の年齢や人生のフェーズに合わせて適切な見た目もあると思っていたので、「その時が来たら受け入れよう...(ゴクリ)」と思っていました。
で、実際に出産をした結果、、、
美容に対する意識はぶっちゃけ何にも変わりませんでした。
(むしろ仕事とのメリハリがきいて意識が上がったかも)
体型が妊娠前に比べて変わった事に出産の後はずしーんとショックを受けましたが半年経ったら、サイズは戻り、元のサイズの服が着られるようになり、産後の抜け毛も治って、肌状態は妊娠から出産、産後も大した変化はなく。
子どもが夜になると、見事に熟睡してくれるので寝付いたら赤ちゃん用のカメラで監視しつつ半身浴しながら、仕事の整理をしてます。
思えば私は自分の外見に自信を持てるようになろうと誓ってから、お金がない時はヒールで出社して、運動靴で9駅歩いて帰っていたし、起業を決めてからは半身浴しながらビジネス書を読み漁り、初級シスアドを取るときも、半身浴しながら勉強してました。
漫画喫茶で寝泊まりした時期も、カバンにはいつだってAQのクレンジングとアルビオンのサンプルが入っていて、スキンケアを欠かしたことはなかった。
つまり、状況は関係なかったんです。
少なくとも私の場合は、一度、こうすると自分に誓った事は絶対に曲げないから。
「努力して、自分の外見に自信を持てるようになる。芸能人みたいな完璧な美人にはなれないかもしれないけれど、自分にとって1番のキレイを目指す」と決めた日から。
そして、昔の私のように外見に自信が持てない女性の後押しをするサービスを作ると誓った日から、私にとって外見は、自分の生きるスタンスそのもの。
子育て優先!仕事も優先!自分は二の次、三の次だけど、そうであったとしても、同時進行したり、創意工夫して。
毎日の歯磨きくらい当たり前の、ちょっとした努力を重ねていく。
そりゃ独身で毎日あらゆる時間やお金を美容に費やせる状況と比べたら難しいかもしれないけれど、、
あっさり簡単に手に入れるものは、すぐに手放せてしまうもの。
時間をかけて汗水流して手に入れるものは、長く手元に残るもの。
なので
私は私の環境の中で、育児や仕事を大切にしながら出来る最大限で綺麗を目指していきたいと思います。
といってもアラフォーなのに20代の外見!みたいな美魔女路線の綺麗はベクトルが違うので、私が目指すのは年相応の美しさや魅力です。
人間だから老けるのは当たり前。
若い外見に執着すると歳を重ねる楽しみが半減するので、自然な流れに身を委ねつつ、年齢がいくつだからどうの、という括りのない綺麗を目指します。
「ママなのに綺麗」って言葉が生まれてしまうほど、育児は慌ただしく、子供の特性によっては夜に寝てくれないとか、本当に物理的に無理って人もいると思う。
ただ、私は今までの自分の経験、サービスを運営して沢山の女性の外見の変化と、それに伴なう内面の変化を見てきたから思う。
外見の自信は内面に繋がる。
自分を好きになると未来が明るくなる。
どんなに大変なときでも自分を信じてあげることが出来るようになる。
だから、環境や状況で難しくとも、綺麗でいようとする気持ちは常に心に持ち続けてほしいなと思います。
今は育児中心ゆえ、ママとしての発信になっちゃうけど、美容に気を遣えない状況は育児以外でもあると思うので、、
ちょっとモチベーションが下がったときは、まずはヘアアレンジから(*´∀`*)ノ
巻き髪女子会の宣伝かい!と言われそうですが、そりゃそうさ、私はこういう考え方でサービスや講座を作っているんだから( ^ω^ )笑
自分の人生の中で、こんなサービスがあったら、こんな講座があったら、私は受けたい。きっと必要としている人は私以外にもたくさんいる。
そういう等身大の経験を形にしているから。
【巻き髪&編み込み女子会】
メイク薄くてもヘアアレンジちゃんとしてると、素敵に見えるし、意識も確実に上がりますよ。
実体験からのオススメです (人´∀`*)ふふ
人生逆設計
女性の人生ってハードだなーとしみじみ思います。
子どもを産むのかを決めないままに目の前のことを頑張ってきた女性が、今、周りで苦しんでいて、複雑な気分になります。
ある女性は30代後半で交際中の彼氏からプロポーズされ結婚。子どもがほしいと思い不妊治療を受けるも確率が5%に満たないと告げられる。
別の女性はすごく素敵な方なのに長く交際していた彼が浮気して破局。40代になったばかりで先が見えないと落ち込んでいた。
大した仕事にも就かず遊び惚けて適齢期を超えた女性ならまだしも、一生懸命仕事して、その仕事を通じて人や社会を豊かにしてきたはずの人たちが、その対価に出産と向き合う時間を失い、胸を痛め、葛藤している現実に憤るし、「デリケートな問題だから」と腫れ物を扱うような感覚で避け、当事者の向き合う機会を減らしている社会そのものにも疑問を感じます。
結婚適齢期は年々上がっているし、何なら結婚なんてしなくてもいいという価値観も広がり始めている中で、私たち女性の肉体的な出産適齢期は変わっていない。
残りわずか数年の間に決意し、行動しなければ一生子を持つことが出来なくなるかもしれない。その取り返しのつかないさが持つ恐怖は女性特有のものだと思う。
自分の人生を逆算して、仕事はこの時期まで追い込んで、この時期に出産して...そんな計画を立てて行かなくちゃ30代なんてあっという間に終わってしまう。
かくいう私は先の先まで考えてリスクヘッジをしてしまう性格で、子供を産むことは自分の人生でマストだから、と30歳で産む決意をしていました。
結婚はいくつになっても出来るけど、出産は今しかできない!とすごく真剣に考えていました。
だから25歳で起業。詳しくはこちら
有言実行ぶりが凄まじいですがw
結果的に31歳で出産に至り、今は育児真っ最中です。
子育ては人生で一番だと思う計り知れない幸せを得られる時間です。
しかし、育児が始まれば始まるで、その責任や自分の時間の取れなさに喘ぐ日々でもあります。
産んでも産まなくても女性の人生はハード。
ゆえに最近は人生やり直しをするなら?どんなプランなら多少なりイージーになるのだろうか?と逆設計を想像したりします。
18歳で生んで、今の年齢なら子どもも14歳。
高校生になれば親の手はだいぶ離れるから、私もそこから起業にチャレンジ!
人生3ステージ目を今くらいの歳で迎えるってなれば体力もあるし、凄く楽しいだろうなーと。
でも、18歳で産んで32歳の私が今の私と同じかといえば、そんなはずもなく。
そもそも世の中の「当たり前」をつまらなく感じる、この価値観や、世間とずれることに恐れのない強さや、ピンチほどワクワクしてしまうこの変わった性格は、起業してから今まで身につけたもの。
やっぱり私は今の私をとても気に入ってるから人生やり直しでも全く同じ道を選んでしまうんだろうなーと思いました。
数々の失敗も全てひっくるめて、今この時の自分にたどり着く道を選ぶだろうな。
今の人生が楽しいもんなぁ(*'ω'*)と
何が言いたいかって、女性はなるべく若いうちに自分の人生設計を立てた方が、あとあとで悔やむことが減ると思います。
現実はすごくシビアだから。どんなに目を背けても逃げられない問題ってある。
男だ、女だって言いたくないけれど、身体のつくりを考えると女性の方が現実的になった方がいい。
でも人生逆設計で「ああしていれば」って言っても過ぎた時間は戻せないものです。
そして人生に取り返しのつかない失敗があるのかといえば、それも違うと思います。
今、結果として目の前にあるものは過去の自分が一生懸命に生きてきた結晶だから、それ自体が財産だもの。
その中で、今この時に自分が必要だと思うこと、自分が実現したいことに一生懸命に生きることこそ尊いと思うのです。結局人間って目の前のことをどうするかの積み重ねだから。
こと「子どもを産める限界」にスポットライトをあてると女性の人生はハードだと思うけれど、期限のある大事な選択肢を持っているって素晴らしいことだし、それは義務でなく権利だから、ポジティブに受け止めていけたらいいですよね。
背負うものも悩むことも多いけれど女性に生まれてよかった、と私は思います^^